言葉や理屈だけでものを考えることが習慣化してしまうと
説明がつかないものや不合理なことが発生すると、それはよくないものだと
判断して合理的に解決しようとするし説明をつけようとしたりするが
りくつが通っているかどうかだけがものの価値や精度を高めるかというと
そうでもなく、もっとでかいところがあるように思う

明るい、とか痛いとか、体感のことを言葉や文字で表現して説明することはできるが
明るさや痛みそのものを伝えることはできんし、「痛み」というものを言葉で考えることと
痛みを思い浮かべることはまったくちがう、原理的に言葉が立ち入れないところもある

地球上で説明がつかなくとも、宇宙のどこかで説明がついてるかもしれない
事象というのはいくらでもあるのではないかとおもうし
理由もわからずときめく物体というのも、たまにあるしな

科学的や数学的に考える方式のほかにも、国語的や社会的、音楽的図工的
体育的、感情的平和的、さまざまな発想でものを考えることができる
忘れてはならないことだ、、、


あまり自分の気持ちが説明つきすぎてしまうとそれはそれで違和感ある
説明つかずとも納得できれば