言葉でなんか言ったり考えたりすることについて

言葉というものはそもそも人に何かを伝えるための道具で
伝達のためにある。人が二人以上向かい合うことで初めて発生する
小さな子どもは他人と向かい合うことで言葉を覚えるものだし
そもそも文字や言語は人同士が疎通するために作られたもので

言葉によってものを考えるということは、他人との関わりのうえに成り立つ
ということもあるいは言えるかもしれない
あれこれ考えをめぐらしたり、なにかを思い出したりすることがあるが
そういう活動の根本に、他人との疎通と共通するところがある

他人と疎通するための道具のおかげで、理論的に考えることができる
言語というもんがなかったらと想像すると、想像がむずかしいが
もし言葉というものが存在しなかったら
絵や音が頭にダイレクトに浮かぶかな、手がかりとなるものが
少ないように思う。あんまり複雑なことは思いうかべれないだろうかな



言語の入出力は大きく分けて
耳で聞くことの出来る言葉と、目で見ることのできる文字がある
光の信号と、音の信号のなかから意味のある情報を引き出したり
信号に意味をのせて発することができる

五感というものがあるから、ほかにも三種類
味覚、嗅覚、触覚があるが、それらに意味をつけて言語として認識することも
できるのかもしれない
目が見えないひとのために点字というものがあるがあれにしても
手触りから意味をとって言葉として思考することが出来る
たとえば味覚で考えるなら、しょっぱい味で怒り、甘い味で悲しみを語る
という言語がもしあるなら、甘じょっぱい味でそういう複雑な感情を緻密に表現
できるのかもしれない


話がそれた
そういう感覚が仮にあったとしても、それは人が複数人向かい合ってはじめて
成り立つ。一人なら、甘じょっぱいものはそれ以上でもそれ以下でもない

裏をかえせば、甘じょっぱいを甘じょっぱいと感じることができる
味覚の言語を持ってなくても味を感じることはできているわけだから
言葉の上で捉えるまえに
そういうもんが存在することを知っておきたい気がする
ものを面白いと思ったり、美味しいと思ったり、きれいと思ったりするが
なぜなら、、、と思考がなるその手前の感じたそのものだけのことを

語り得ないもののことがある
言葉にしてしまうことで、ある程度単純にする記号のやりとりになる。
それの手前の生の感触そのものをつなげることができるだろうか