あるエッセイの本を読んでいた
子供の頃の出来事を回想する内容で
繊細な部分までよく覚えているんだなと思った


自分の子供の頃の出来事をどれくらい覚えているか
思い出そうとすると、もう長いこと脳の表面に浮かんでこなかった
ような断片が、念じれば浮かんでくることにおどろく
何年も外気に晒されず埋まっていた記憶が、ちょっと考えただけで
出てくるの結構不思議だなといつも思う

思い出したり忘れたりを繰り返しているうち
事実と一致する正確なものでなくなっていってるのではないかと
いうことについても、よく考える
石とか頑強なもんでも、長年の風雨なんかで風化して形がすこしずつ
マイルドになっていくように、記憶も思い出して忘れての繰り返しによって
角がとれたり、おぼろげになっていっているのに
昨日のことのように鮮明に感じていたりするのではないか
正確だと思っているのは自分だけなのではないかと

でもその思い起こしている記憶は自分の中にしかない、自分だけのものだから
その不確かさは、たしかめようがないものになってる
 
確かめたくて、記憶の現地へ行ったり、当時の写真を見てみたりしても
それら証拠物件は抗いようもなく精密なものであると同時に
自分が見たもの記憶したものとは本質的に異なるものであるから
強力な砥石で記憶を研ぎ直してしまうようなもので
それはそれで全く違う鮮明さが付与されてしまうということもある
そんなことを繰り返すうち、おぼろげな記憶はいよいよ別物になっていく
 
記憶を文章にするというのも、けっこう砥石感ある
文章にするときには、言いたいことを言うために余計なところを省いたり
必要な説明をがんばって補ったりもするし
それによって文章ができあがると、やっぱり完成したテキストというのは
また別の強固さやシャープさが発生するものだから
それもまたおぼろげの研ぎ直しが起きているということで


といったことを思いながら読み進めていたら、次の項で
昔の記憶は不確かなもので、前項で述べた○○は正確には△△だった
という補足があったので、急になにかが共有された気がして
文章に親近感がわいた
 
克明に書かれた本が、じつはおぼろげなものの集合体であると思うと
すらすら文章を読めるような気がしてくるが
しだいに不思議と頭に入らなくなってきたので 
そこから数ページ読んだところで読むのをやめておいた